忘却に生きる私の罪
020:あなたの言葉は私を傷つけるものでしかない
ひたひたと息づくそれは姿をとらえられない魚に似ている。跳ねる音に目を向けてもすでに遅く波紋が名残に水面を揺らす。澄んでいるはずの透明はかえって鏡のように空を照らして見えなくなる。藤堂は肩のあたりが緊張するのを感じて肩をすくめそうになった。ごまかそうとして肩甲骨を引き締める。背筋が伸びて呼気を整える。新たなねぐらになった黒の騎士団は、それでも安住の地ではない。睡眠も食事もするが仮初のように落ち着かずに藤堂は何度も姿勢を変えた。人数が膨れ上がりつつあることもあり、作戦がなければてんでバラバラの自宅へ帰り着く。藤堂も申請や手続きを繰り返して私邸へ帰ることになった。起きて半畳寝て一畳とはよく言ったが人数が増えるごとにそういった場所が入用になる。個人での独占より入れ替わり立ち代りで共有する。
藤堂は愛刀を誂えた袋へ収めた。紺紫地に紐の先端が白く絞られる。袋に入れて持ち歩くぶんには日本武道の心得ものであると認識される。スポーツとしてなのか生きるすべなのかはあえて見せない。愛刀を携える藤堂に投げかけられるのは珍しいものを見た興味ばかりだ。ブリタニアという大国の隷属になってからは珍しさと同時に厄介に思われる色も加わった。日本と名前を冠するものはことごとく制裁の対象になる。関わり合いたくないのが本音だ。
手近なものへ挨拶や声掛けを済ませる藤堂の目の前に白と黄緑が踊り出る。腰へ届くばかりの長い髪は毛先へゆくほどふわりと開いていく。それでも巻くことはなくしっとり垂れている。
「何だ、藤堂。帰るのか?」
頷くのを彼女は口元だけを弛めて笑んだ。
「気をつけて帰れよ。最近の狼は見た目が猫だぞ」
見た目と思想の齟齬はありふれる。イレヴンとしての待遇を受け入れたものと抗うものは基本的に馴れ合わない。言葉をかわしても互いに斬りつけ合うばかりだ。神妙に唸る藤堂に彼女は鈴を転がす声で笑った。ちょっと違うがまぁいいか。ああいうのは隙があるから寄ってくるのさ。自己責任だな。長い髪をなびかせてひらひらと華奢な手が振られた。
「猫だか犬だかわからないからお前が男にしてやれ」
後ろは見るなよ。藤堂は返事をしなかった。承認できないことも判らないことも返事をしないくせがついている。若い頃は上層部へ何度も意見したがその度にひどい目にあって懲りた。感情的なもつれの制裁に温情や倫理は存在しない。
藤堂は改めて荷物を点検すると所定の手続きを踏んで騎士団を離れた。
繁華街でも鄙でもない場所へ降り立つ。藤堂の家がある場所は旧家が多い。藤堂も多少噛んでいるのかもしれない。日本が日本であった頃に師範として籍をおいた道場は首相の子息が通い、その関係者ばかりが出入りした。純粋な武道の腕前と同時にある程度の血統や伝手が要りようだった。門外漢が強いからという理由だけで出入りできる場所はない。それも昔の話だ。板塀や生け垣の背が高く庭先さえ見えない。表札が下がっているのは気持ちだけで、風雨にさらされて木目や艶が目立つ。墨字で書いてあるものは木目の色と同化する。入れ替わりの稀な地域であればどこに誰が住んでいるか判るから誰もそこを改善しない。新人の配達夫が困るだけだ。
藤堂が途中で見繕った惣菜の袋を揺らす。家を空ける期間が長いためか傷むものはなるべく置かない。入用になればその都度買い足す。熟れた店の主人や店員は藤堂の無愛想でもちゃんとものを売ってくれる。それでも一人分しか買わないのは気が引ける所為か客もいないのに二人分購入する。たいていは翌日の食事へ持ち越された。暮方ともなれば人気が絶える界隈だ。靴音を数えるのは容易で、藤堂は後ろからついてくるそれに気づいた。待つ家族もいないし特に急ぐわけでもなく鈍行でゆっくりと帰宅している。尾行の可能性と所属機関に考えを巡らせる。思い当たるようなものはない。騎士団の幹部は奇跡を冠する藤堂をしきりに重く見るが、世間的には無名に近い。そもそも戦闘機に乗った戦闘が基本であれば資料もなしに相手を見分けない。通信で音声は拾えても顔まで一致するのが下々まで行き渡っているとは思えない。だとすると個人。藤堂を知っていて、その上での行動だ。悪質な狩りが流行った折には『奇跡の藤堂』はありとあらゆる標的になったが藤堂と対したものなど片手に余る。名前ばかりが先行して顔や体つきといった情報が追いつかない。女性であるのに藤堂に間違われたという話を聞いた時には思わずため息が漏れた。
急がずに背後を窺いつつ自宅へ向かう。自宅の位置が知れたところで惜しいものでもない。藤堂のものに対する執着は薄いから、家ごと持って行かれてもそれはそれで構わないとさえ思っている。代々の仏壇も家屋も土地も藤堂の代で終わりでいいと思っている。ともあれ、と藤堂は歩く速度をゆるめた。尾行があまりにも下手だ。靴音も歩く気配もまるで隠さない。見つからない自信があるというよりは隠し方を知らないそれだ。視線を刺すように感じるし振り向く気配を見せれば怯む。そのくせ振り向いた時にはもういない。後ろを向いたまま歩いてやりたいくらいだ。馬鹿馬鹿しい。藤堂は久しぶりの自宅の門を見上げる。誰が書いたか水際立つ筆で藤堂の名が記してある。下の名前を連ねないのは代々で住むからだ。付け足しや削除の手間をあらかじめ省く。閂はそのままに潜戸を開けて入る。郵便受けを確かめてからしばらく息を殺す。ぱたぱたと慌てた足音がする。門構えに怯んだらしく足音が止む。潜戸は軋むし、背をかがめるので目立つ。藤堂は黙したまま大扉に背を預ける。閂がしてあるから多少寄りかかった程度ではきしみもしない。尾行者は意を決したか潜戸を押した。慣れない敷居に躓く。そのなりはひどく華奢で藤堂のほうが驚いた。
軒灯が灯っていないのを見て弾かれたように振り向く。薄暗くても判る濡羽色の髪と紫苑の双眸。大振りの目や紅く色づいた唇に藤堂は見覚えがあった。
「…ルルーシュ、くん?」
藤堂が籍をおいた道場の、首相の子息の友人だと紹介された。丈も幅もないうえに隣には常に車椅子の妹を伴っていたから兄妹というより姉妹に見えた。やわらかい髪のように体つきも華奢で、遊びに付き合うだけで傷をこしらえると首相の子息に愚痴られた。彼が活発なことを差し引いてもルルーシュは嫋やかだった。とう、どう。紅く潤んだ唇が動いた。茫然としている藤堂の唇に吸い付いてくる。肉体労働とは無縁の細い体。袖や襟から覗く肌は無機的なほど白い。
「会いたかった」
紫水晶が眇められて口の端だけがつり上がる。
ルルーシュを伴って玄関の鍵を開ける。古い建付であるから鍵を解くにもかけるにも、扉の開け閉てにさえ塩梅が必要だ。心得た藤堂が開く玄関へルルーシュは跳ねるように飛び込む。暗いなりに何とか見当をつけて靴を脱ぐ。ルルーシュの方でも遠慮しない。勝手知ったる傲岸さで靴を脱ぎ捨てると奥へ入り込む。ルルーシュくん? 祭壇がある。いつの間にか奥座敷へ入り込まれた。代々の仏壇や位牌ぐらいしかない。祭壇ではなくて仏壇だ。違うのか。詳しくは知らないが。日本人は面白いな。言い慣れない言葉を使うときの上がり調子に気づく。日本人はイレヴンと呼ばれ始めてからなれるまでの期間を経ている。不本意かどうかは問題ではない。普及率の問題だ。ホトケサマって神様なんだろう。スザクが言っていた。スザクというのは当時日本国首相であった男の一粒種だ。才能はあったが機会に恵まれなかった。
藤堂は諦めて惣菜を台所へ持ち込んだ。二人分購入したのが幸いした。飯を炊く間に惣菜をこしらえる。佃煮などは常備菜だ。豆腐や卵を使った惣菜を作る。ルルーシュは珍しげに部屋中に入り込む。閉ててある襖や障子を開けては感嘆する。開けたら閉めて欲しいんだが。風通しは時に肌寒ささえ呼びこむ。台所はひんやり寒い。井戸水だから冷たくはないと思うが暖房がほしい。家の裏手に掘ってある井戸から直接水を引く。井戸口自体は封じてある。忍び込んだ子供が落ちても大事になるから水道管の工事をした時に口をふさいだ。濡れ手のままで藤堂は包丁や食材から離れてルルーシュに声をかけた。食べられないものは。ない。返事が短い。しかも遠い。どこまで入り込んだやら。藤堂はおとなしく調理へ戻った。
急な来客に派手な料理の備えはない。藤堂はなんとか惣菜をこしらえると座卓へ並べた。独り者にしては大きいのは元々は両親やその前の代までが揃っていたからだ。藤堂が長じるほどに面子は減り、しまいには広い卓子で一人膳をつつく。広い場所で一人というのが案外気をくじくのだと思い識った。徐々に整う食膳にルルーシュの目が煌く。卵が余っているからご飯にかけても構わない。今日買ったばかりだから大丈夫だろう。ルルーシュは席につきながら唸る。いらない。納豆や山芋があるかな。もっといらない。藤堂はアジア文化圏外が生卵を嫌うのを思い出す。納豆も嫌われる。ルルーシュはブリタニア出身であるからそちらに近い。…ふりかけはないんだが。ライスはライスで食べればいいだろうが。しれっと言われてそういうものかと落ち着いた。頂きますと箸を揃えてから思いついたように問う。箸が使えるかい。ルルーシュは器用に先端をぱちぱちと打ち合わせる。さんざんスザクにバカにされたから覚えたぞ。
二人で黙々と膳をつつく。煮物やおひたしばかりでルルーシュが好むとは思えない献立だが文句は出ない。まじめに魚の身を解している。ナイフとフォークのマナーだったらお前より上なのに。しみじみつぶやかれて藤堂の箸先が迷った。二人で同じ食卓なんだ、もう夫婦だよな? 穿つように言われて驚いた。目を瞬かせて中空へ箸先が浮いた。つまんでいた白身魚がポロリと落ちた。茶褐色の汁の中で白い身が泳ぐと真珠のように照る。ルルーシュは気後れもない刺し箸でその身を突き刺すと口へ放り込む。日本料理は嫌いじゃないぞ。…納豆は、ちょっと苦手だが。ルルーシュは飯茶碗を口元へ近づけない。露ものはさすがにそうはいかないようだがスプーンが欲しそうな目を向けてくる。これ、器に口をつけてもいいのか? すすっても構わないが。藤堂の箸先は内側を向いて椀に添えられる。
互いに明かさない期間があるがどちらからも口を開かない。そもそも藤堂が所属する黒の騎士団はテロリストなのだ。大義名分を謳おうが決まりに逆らう以上はただの犯罪者だ。軍属が賊軍になった時、藤堂は藤堂の家を自分で閉じると決めた。なぁ、藤堂。ルルーシュの声が物憂げだ。少年らしい甲高さは驕慢で、気位の高さのようだ。どうしてオレが尾行したのかとか、訊かないのか?
「応える気があるなら訊くが」
聞きたくないと言ってるようなものである。ルルーシュは不満気だが安心したようにそうかというと箸を動かす。日本人はそういう気遣いがあるんだな。オレの周りはそういうのを切り札にしたがる奴ばっかりだったから。スザクや首相に関わる立場としてルルーシュたち兄妹の経歴はひと通り聞いてある。皇位継承権低位、人身御供。本国にいることさえ赦されない彼らは母親を奪われてから日本を訪ったと訊いた。その采配は父親であるブリタニア皇帝が一手に仕切り、異論は認められなかった。母親という権力をなくした兄妹には従うしか道が残らなかった。少し調べるだけでこのくらいは判る。なぜ皇帝が一手に担ったかや兄妹共々隷属国へ追いやられた理由など内々に関することはわからない。わからずともことは進む。二人は首相の子息であるスザクと仲良くなった。年頃が似ていたから想像に難くない事ではあった。スザクはその生い立ちと同じ程度の理由で複雑な立場に居た。戦闘力が高すぎた。並の相手ではスザクに及ばず、子供の群れからスザクは突出して孤立していた。孤独を知る彼らが惹かれ合うのも当然の流れであったのかもしれない。
「妹君は、息災か?」
「ナナリーか? …元気、だ」
相変わらず車椅子だけどな。彼女の障害は一朝一夕で治るようなものではないと聞いた。ルルーシュも承知のようで、一生、そうかも、とつぶやいた。君が妹君から離れているのは珍しいな。煮物を食みながらつぶやく藤堂にルルーシュはビクンと跳ねた。藤堂のほうが驚いて箸を咥えたまま固まる。へ、変か? すがるように弱い言葉に藤堂は曖昧に言葉を濁す。妹君とは性別が違うのだし常々一緒とはいくまい。そうだよ、な。彼女は嫌がらないのか。女性は案外気丈なものだ。藤堂は四聖剣に名を連ねる千葉を思い出した。女性でありながら群を抜く戦闘力や状況判断は光るものがある。彼女は女性を冠する褒め言葉を嫌う。一人の戦力として私を見てほしい。痛切に訴えられて藤堂は生返事をしただけだった。藤堂が保守的なだけである。
「…ナナリーは……あれはあれで、うまくやっているのだと思う。同じ学校に行っていて。年齢が違うから学部とかが違うんだ。でも泣き言を聞いたことはない、し。……本当に気丈、だ。目が見えないけど声は聞けるからといってちゃんと試験をクリアしているようだし。理解力は正常なんだ」
ならば問題あるまい。藤堂は食事を再開した。試験をきちんと受けられているなら卒業や進学も出来るのだろう。何かあってもルルーシュがそういった待遇の良い学校を選ぶだろうことは容易に想像がつく。そしてルルーシュの頭脳は藤堂が知るかぎりでは学力によって進学先を阻まれることはないだろうレベルだ。
「…スザク、は…?」
ルルーシュの声が震えている。旧知の仲としてルルーシュがスザクの先を案じるのは当然だった。君たちと別れてしまって落ち込んでいたが、気丈に過ごしていると聞いている。聞いてる? …事情があってあの道場から私は籍を抜いた。もうしばらく顔を出していないから彼がどうなったかは答えられない。嘘ではない。藤堂は師範としての籍を抜いて軍属に絞った。ましてテロリスト団体所属では過去のものであっても威光をかざされては道場が困ろう。どちらかへ引き取られていったと聞いている。親御さんが、おそらく君も識ってのとおりだから。日本国最後の首相は自決した。それが公式発表だ。色々と面倒な境遇であれば書簡のやりとりもない。言葉を途絶えさせる藤堂の様子にルルーシュも承知したように問い詰めはしなかった。
「…と、うどう…あなた、は? その、…藤堂は、今、何をして…?」
「日銭稼ぎだな。入用な分だけ稼いでいるよ。この家も手放したほうがいいのかもしれないな」
ただ、私の経歴が邪魔ではけなくてね。経歴? 日本人に代金を払いたくないやからが多いんだ。彼らは力づくで奪える時を狙っているから。せめて名誉ブリタニア人であれば、とは何度も不動産屋に言われたがね。ルルーシュの目が傷ついたように潤んで瞬く。藤堂はつらつらと続ける。案外広さがあるだろう。井戸もある。分譲するにしてもまとめてはけてくれなくては困るだろう。だからなかなか買い手がつかないうちに泥がつくんだ。そうすると捌くのがますます面倒で嫌われる。悪循環だ。藤堂が惣菜のひと品を示す。そういった店舗もまだ日本人が営むからね。日本人の街中へブリタニア人は入りたくないようだ。
君はよくこれたな。藤堂が感心したように言うのをルルーシュが恥じらう。…そ、その。藤堂しか見えてなかったから…あんまり周りの空気は知らずに。目立ったか? 迷惑、だったか? 私は構わないが、帰り道には気をつけた方がいい。駅まで送ろう。ブリタニアと日本は人種が違うからそもそも顔の造作が違うんだ。君みたいなきれいな顔は日本人では無理かな。くすりと笑うとルルーシュがふわりと笑む。不意に慌てたようにルルーシュは玄関や庭を気にする。
「どうした」
「…すまん、ちょっと気になって…その、同じ職場の同僚とか、急に来たら、オレがいたら悪いかなって…」
「こんな鄙へは誰も来ない」
君は相変わらずだな。藤堂に微笑まれてルルーシュは紅い頬を火照らせて顔を上げる。気遣いが行き渡りすぎるほど届くな。大人びた子だとは思っていたがね。妹君の好物は多く取り分けてやっていたんだろう。スザクくんが言っていた。自分では口を付けずに妹君の皿へ惣菜をあけてさぁ食べろと言うんだって。彼女が残した分だけつついていると言っていた。スザクくんは腹を立てて君の口へ惣菜を突っ込んで喧嘩になったとも言ってたな。喧嘩ができてなお修復できるのは貴重な関係だ。お互いにまた会うことができればいいな。
「と、藤堂!」
名を呼ばれて顔を上げる。その唇に吸い付かれた。そのまま押し倒される。畳敷きの上を四肢が打つ。ルルーシュの膝が畳のへりを踏む。
「藤堂、頼む。一度でいい。一度で、いいから」
「オレに抱かれてくれないか」
藤堂の胸に顔を伏せてルルーシュの細い肩が揺れた。抱かせてくれ。オレがオレのままでいいのだと肯定してくれ。今が、岐路なんだ。オレはこれから非情にならなくてはいけなくて。だから。だからせめてまだ人間らしい優しさがあるうちに。お前を抱きたい。お前の熱を覚えてから血を浴びて修羅に成る。最後でいいから。おねが、い。ルルーシュの白い歯が藤堂の首筋へ噛み付く。がり、と皮膚がちぎられる。滲んだ血をルルーシュの舌がべろりと拭った。溢れてくるのをルルーシュは熱心に拭う。
「と、う、どう」
押さえつけるルルーシュの手がブルブルと震えていた。藤堂はそれを跳ね除けられない。震える身体。幼い。男の子が、震えて。藤堂の脳裏を映像が乱舞する。混乱した。守らなくては。なにを。誰を。私の刀で。子供。血だまり。
「――ぁ、あ」
唇が重なった。藤堂は乾いた唇をふくよかなルルーシュのそれに押し付ける。舌を潜らせるルルーシュに従うように歯列を開く。
「おかせばいい」
灰蒼は眇められて白濁する。白目と入り混じって獣の目のように埋まる。
「こんな、けがれ」
藤堂は自ら腕を絡める。ルルーシュの白い手がシャツを引き裂いた。
「鏡志朗」
ルルーシュの声が少し明るい。藤堂は安堵して目線を泳がせる。暖房器具のスイッチを入れていない部屋が冷えきる。互いのぬくもりだけがひどく熱い。皮膚が触れた場所からとろけるように熱が行き交う。ルルーシュの滑らかな手のひらが藤堂の下腹部を這い、血流やそういったものが藤堂の体を犯す気がした。ルルーシュは肌を合わせてから藤堂を下の名で呼ぶ。年少のものに呼び捨てられるくらいどうということもない。奇妙に浮かれたルルーシュが空疎だ。取り繕っているのではないかと思う。たぶんルルーシュは泣きたくて、けれど泣かない。泣けない?
「どうした?」
「ルルーシュ、くん」
泣きたいなら泣きなさい。言い放った言葉にルルーシュは痛撃を被ったようにその怜悧な容貌を歪めた。オレが泣きたい? どういう、こと。我慢してもいいことはない。藤堂の体験談だ。藤堂はこらえてもこらえてもこらえても報われることなどなかった。たぶんこれからもないだろう。だからせめてまだ年若くて多少の無茶が許されるなら。泣けるときに泣いておけというだけだった。
「なんで、そんな、こと、いうの」
紫水晶は菖蒲のようにしとやかに根底に焼きつく。
「どうして今、言うんだ!」
ルルーシュの涙声が藤堂を叱責する。言い訳さえも思いつかない。こういうときに口が達者であればうまく切り抜けられるのだろうかと思う。藤堂はただ無骨で乱暴で、その気遣いは察してくれるものしか知らない。藤堂の唇が戦慄く。震えるそれをルルーシュは唇を重ねることで遮った。
「ルルーシュ、くん?」
涙が流れになってその薔薇色の頬を滑る。瞬くたびに黒くて密な睫毛が上下する。化粧した時のような強い曲げや装飾はない。ルルーシュの美貌とひどくバランスが好い。
「おねがいだから。それは、保留に、して」
藤堂はゆっくりと目蓋を閉じる。胸にルルーシュが臥せったのが判る。涙の熱だけが異質に熱い。しかも流動的に範囲を広げる。
藤堂は目蓋を押し開くと顔を背けた。愛刀が静謐に佇んでいた。
藤堂はまたしても心を掴み損ねたことだけを識った。
子供を泣かせてばかりいる。
抱きしめるだけの強さがなかった。
ルルーシュは藤堂の胸に臥せって慟哭した。
《了》